むぎっこ通信No.22(2022年春号)

むぎっこ通信No.22(2022年春号)

新しい門出

むぎっこでは、4月から決まってくる子どもはいませんが、3月末に卒園した子どもたちをお預かりしたり、遊びにきてくれてお顔を見ることできる時があります。大人の一年なんてあまり代わり映えのしないものですが、子どもたちの1か月の成長はとても大きい事を改めて感じます。人生のはじまりである子ども時代に一緒に過ごせたこと、また卒園しても、いち応援者として、ご家族と共に成長を見守っていくことができ、とても嬉しいです。新しい子どもが与えられるまで、様々なことを整えて準備していきたいと思います。

発達のふしぎ

1歳の女の子

1歳の女の子は0歳のころから、私の言葉をよく聞こうとしていました。一生懸命に聞こう、分かろうとする姿はとても健気で、かわいらしいという気持ちでいっぱいになりました。しかし、1歳半前になると手を洗うのもイヤ、おむつを替えるのもイヤと、こちらが提案する全てが嫌になりました。赤ちゃんの時、まっすぐな視線で一生懸命に目を見つめていたはずの、どんな子どもにもやってくる、自我の芽生え。一説によると、子どもは十分に愛されていると自覚していなければ自分を表現できないそうです。「イヤ!」と言えるのは、自尊心が育っている事に加えて「イヤ!」と言っても、自分を受け入れてくれる関係性が築けているという証拠なのですね。

2歳の女の子

2歳が終わろうとしていた女の子は、かつてイヤイヤの達人でした。ご両親は「否定形の練習中。」と笑いながら温かく、その姿を見守り続けていました。すると、ある時期から「○○しよう。」と誘うと、すぐに「いいよ。」というようになりました。しばらくはその言葉の後、驚いて顔を2度見してしまっていましたが否定形を存分に研究した女の子は、自分は大切にされる存在である。という研究結果を出し、この研究に幕を閉じたように思います。

3歳の男の子

3歳の男の子は、お友だちの表情や仕草で気持ちを汲み取るのがとても上手です。相手を思いやる姿に私も優しい気持ちでいっぱいになります。しかし、ご両親と一緒の時に、自分を出して甘える姿を見た、お友だちのお母さんが「いつもあんなに優しく、頑張っていられるのは、あんな風にしっかりと甘えられる場所があるからなのですね。」と話されていました。

本当に、その通りだと思います。自分は愛されている、尊い存在であるという土台なくしては、いつまでも自分の存在意義をあちらこちらに求め続け、風を追うように走り続けてしまうのかもしれません。

子どもの事が、かわいければ、かわいい程、大人は心配が尽きませんが、雨が降っても風が吹いても、戻ってくることのできる温かい巣があれば、十分に羽を休めた子どもは、また飛び立とうとすることができると言われています。私たちは子どもの代わりに飛び立つことはできません。しかし「いつでも戻ってきていいよ。羽を休ませていいよ。」と言うことができる、巣のような存在でありたいものですね。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

旧約聖書(イザヤ書43章4節)

絵本の紹介

「だれのて このて」さく ホンダ マモル

だれのて このて
ちいさな ちいさな あかちゃんのて

だれのて このて
おりょうり じょうずな コックさんのて

だれのて このて
びょうきを なおす おいしゃさんのて

だれのて このて
かわいい かわいい にゃんこのて

だれのて このて
おてがみ とどける ゆうびんやさんのて

だれのて このて
りょうてに きずのあと
やさしい やさしい イエスさまのて

だれのて このて
わたしのて イエスさまといつもいっしょ

「だれのて このて」さく ホンダ マモル

キリスト教を土台にする保育について考える時、色々な方法があると思いますが、むぎっこは大人という権力に聞き従わせようとするのではなく、また知識を詰め込ませようとするのではなく、聖書の言葉を繰り返し唱えさせて、「覚えた!」と大人が両手を叩いて喜ぶものにしたくないと思っています。

なぜなら、そこには大人を中心とした価値観に満ちていると感じるからです。ちいさいように見える、この子どもたち、ひとり、ひとりを愛している神さまの心を伝えたいと願う私にとって、子どもたちと歌う賛美歌の一つ一つ、キリスト教の絵本を選ぶ際の一冊、一冊は決して軽いものではありません。

この絵本も、もし子どもたちが好まないようだったら、読むのをやめようと思っていました。はじめて読んだとき、「どうして優しいの?」という質問を受けました。3年も満たない人生の中で、「優しいのには理由がある。」との気付きを持っている姿に、まず驚きました。何故かと問う事は、物事を深く知るには不可欠だと思います。

「○○ちゃんが大好きだからだよ」と答えると「そうか!」というように表情が明るくなりました。そしてその日から、毎日「読んで!」と言われる絵本の仲間に入りました。何故、両手に傷跡があるのか、何故、私の手はイエス様といつも一緒なのか、子どもからもらった問いより、ひとつひとつの言葉が私の心に問います。そうして、私の為に人として痛み、苦しまれた神さまが、今も私の手と一緒にいてくださる喜びを改めて感じるのです